悲しみは辛く孤独

熱く込み上げてくる気持ちを押し殺すと
胸の張り裂けそう強烈な悲しみが押し寄せてくるのである。


悲しみは辛く孤独で、一生続くかのようにも思えてしまう…

しかし、この「悲しみ」を感じることは普通のプロセスであり、人によってそれぞれ違うわけであるが、「悲しみ」という感情の根源は喪失によって引き起こる「苦悩」なのではないか。

まず、悲観の始まりとしては、現実が何であれ、否定することから始まる。
これは、一時的な対処としては役立つが、次に怒りが現れ、神や宇宙といった万物を改変する力があるようなものに頼ろうとする。
それが通用しない場合は鬱状態になり…そしてやがて受け入れる。
まぁ、すべてが解決するわけではないが、受け入れられるようになっていくわけだね。

要するに、悲しみとはごく一般的な過程であって、大変つらく思えてしまうが、いつかは克服できるものであると言うこと。

例えば、大事な人を失うことは、状況がどうであろうとつらいことである。

今年、長年可愛がっていた後輩が自らの命を絶ったと聞いた時に大きな悲しみを感じたが、想像もできず現実味がなかった…その後、後輩は姉に殺されたのだという事実をニュースで知ったのだが…。

このように、周りの誰かが事故や災害、暴力などにより、または予期せずに死亡した場合、日常は侵され、その後の悲しみは、他のタイプの喪失よりも強く長くなる。
知人が事故、自殺、自然災害、暴力行為、または突然の病気で死ぬと、完全に無防備になる。
こんな予期せぬ死の直後、悲しみを感じ、ときに罪悪感や信じられない思いがわいてくる。

フェイスブックのニュースや、地元の日常生活まで、周りには無関心に感じられる死も多い。
予期せぬ死の後の感情を理解しても、悲しみを取り除けるわけではない。
でも悲しみのなか、自分の道しるべとして役立つかもしれない。

もしも、高齢者が長期の病気で苦しんでいたならば、その死は深い痛みをもたらすかもしれない。でも、精神的、感情的に、そして生活のうえでも備えておけるだけの時間がある。
一方、突然の死には、その精神的な準備が何もない。
それは、文字通りどこからともなく出てきたかのようで、ショックでしかない。
車にはねられた子供、旅行の帰りに飛行機の墜落で死亡した友人…この種の喪失は、最初は想像もできず現実味もない。

予期せぬ死によるショックはしばしば茫然自失の気持ちをもたらす。

感情が凍ったかのように…

でも、それが普通なのだ。

だからこそ、自分に時間を与え、徐々に新しい現実に適応していくこと。
例えそれが、愛する人がまだ生きているという不合理な考え方であっても。
自責の念のため、「もしあのとき」というコーラスを繰り返すことも。
もしあのときサインに気づいて何かしていれば、といったように。
もしあのときあのお店に行くのを頼まなければ、あのとき信号のところにいなかったのに。
あるいはなぜその人が亡くなり、自分が生きているのかという疑問に取りつかれるかもしれない。
この感情は無力感への自然な反応で、より壮大な意味でその人が亡くなった意味を理解する必要があることも。
自分の責任ではないと折り合いをつけるには、時間がかかるのである。

数年前に友人が、両親を車の事故で亡くしたとき、彼が表現した最初の感情は悲しみではなく怒り。
その怒りは、田舎道沿いに停止標識を設置しなかった都市プランナー、暗闇のなか、飛ばしていた小さい車を見落としたドライバー、翌朝ではなく夜遅くに運転することを選んだ両親にすら向けられました。
後から考えれば、怒りは悲しみよりも抱きやすかったのだろう。
傍から見て感情を抑えられないように見えても、怒りを表に出すのは健康には良いことなのである。

恐怖と怒りは両立している。

怒りが薄れたとしても消えたわけではない。
この怒りを表に出すのと、忘れないことは、悪いことではない。

暴力的か悲劇的なかたちで人が亡くなったとき、強い不安感か恐怖感を感じるのは普通なのである。
死の詳細が気になって仕方がない、時間の経緯ばかり気になってしまう、死の場面が心のなかで再生される、抑えられない、もしくは繰り返す悪夢です。

場合によっては、予期せぬ死は、本格的な不安障害を招くのだ。
心的外傷後ストレス障害(PTSD)、パニック障害、うつ病もしくはそう病エピソードなど…まさにトラウマなのである。

この一年、自分自身がそうであったように。

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